畳店を続けていられるのは自分の努力だけではない。
うちを支えてくれている材料商さん、製畳屋さん、表問屋さんそしてもちろんお客様が在ってこそである。
そんな多くの方の支えが在ってこの道を歩めるのである。
先週、畳表仕入れの件でお世話になっている熊本の高橋商店さんへ電話をした。
社長の携帯に掛けたが留守電に。
自宅に掛けても留守電。
次の日も同じ。
・・・夫婦で旅行でも出掛けたのかな?
また次の日は日曜日だったので月曜日の朝、現場帰りに連絡したが携帯は相変わらずの留守電。
自宅に掛けると奥さんが出た。
『 お世話になっております!社長いらっしゃいますか? 』 と聞くと 『 米井さん、丁度さっき私も連絡したんだけど留守だったから・・・実は・・・ 』
嫌な予感・・・ 『 実は主人、亡くなったんです・・・。 』
絶句した。
『 いつ? 』と聞くと『 米井さんの所に伺った関東出張の帰り道で・・・ 』
気が動転しながらも話を聞く。
うちへ来たのが8月8日の朝。
鼻風邪はひいていたがいつも通り元気な笑顔を見せてくれた。
帰り際、『 表、使う分計算して連絡しますね! 』 と言うと 『 お願いします、それじゃあまた! 』 と言って別れた。
関東には東京の畳店~千葉の畳店~茨城の畳店の順にお得意様を回り熊本へ戻るのである。
8月10日に連絡が取れなくなり警察に届けを出した。
12日に警察から連絡が入り新東名道、掛川パーキングエリアの駐車場に停めたトラックの中で亡くなっていたらしい。
糖尿病の持病があり毎日薬を飲んでいたのでそれも含め病死と言う事だった。
うちとの取引は親父の代から約30年になる。
その間、1月を除き毎月必ず熊本から1600キロの距離を4tトラックに乗り畳表を運んで来てくれた。
それを30年。
広島で表問屋をやっていて広島の産地が衰退、熊本へ移り30年。
畳表の事、産地の事、広島の頃の話、忙しかった昔の話、広島産地と重なって行く熊本産地の衰退状況など。
畳表や産地情報は殆んど高橋さんがいたからこそだった。
うちが全て安心安全、良質の国産畳表を扱い商売が出来るのは高橋さんがいるからこそなのだ。
動揺しながらも電話を切り直ぐに仕事の予定を考えた。
そしてその日の夜、もう一度奥さんに電話をし日曜日に線香を上げに行って良いかを聞いた。
大丈夫と言う事だったので直ぐに飛行機などを予約。
そして1日の日曜熊本空港に降りた。

台風が懸念されたが何とか無事に到着。
涙雨が降る中、レンタカーで宇城市小川町を目指す。
6年前に消防の旅行を一人抜け出し訪れて以来の熊本。
その時は小川駅まで迎えに来てもらった。

JR小川駅
ナビに案内されながらも記憶を辿り道を進む。
しかし結局ナビが違う所を指し示し連絡を取り迎えに来てもらった。
6年ぶりに会う奥様、よく来てくれたと言って自宅へ向かう。
住いへ到着。
半月前別れたばかり、相変わらずの笑顔がそこにあった。
早速仏壇へ手を合わせ家族の分も線香を上げる。
色んな想いが駆け巡り涙を止める事が出来なかった・・・。
色んな事を聞いたし話した。
『 それじゃあ、行って来る 』 それが奥さんが見た最後の笑顔だった。
仕事が終わり奥さんの待つ熊本へ。
それが叶う事無く自分では熊本に戻れなかった。
若い頃からずっと続いてきたいつもの事。
『 主人はトラックでの配達が好きだった。米井さんの所に行くのもいつも楽しみにしていたみたい 』 と話してくれた。
昔は10数件トラックで熊本から配達をする表問屋さんがあったらしいが1軒辞め、2軒辞め。
最後まで残ったのが高橋さんだったらしい。
60を越えた時から 『 もう配達は止めれば?! 』 と何度も言ったらしいが新車を買い変わる事無くここ千葉県まで。
新車に買い換えた時はそれはもう嬉しそうで、あの時の笑顔は忘れられない。
『 仕事の途中でこんな事になるなんて、それでも本当にあの人らしい・・・ 』 と奥さんが話した。
一通り話し終わって倉庫(作業場)へ。




主がいなくなってしまった大きな倉庫。
本当に辞めてしまうんですか?との質問に驚いたような顔もしたが『 膝も悪いし、ここ数年は経理だけですべて主人がやってくれていたから・・・私はもう畳表を持つことが出来ない・・・ 』 と寂しそうな顔だった。
その後、車で八代市内を色々案内して頂き宇城市に戻り夕食を近所の有名寿司店にて御馳走になり私は車で宿を取ってある八代へ。
そして次の日、この日も朝から雨。
朝9時、自分の後をこの方だったら間違いないという八代市にある畳表卸問屋の塩屋本店さんへ案内してくれた。
塩屋本店さんは八代市千丁町大牟田にある。
い草の神様が祀られている岩崎神社も近い。


今の社長は私より2つ下の働き盛りの40歳。
若いが目利きも優れ個人の畳屋さん専門の卸問屋で高橋さんとよく市場での入札が被ったらしい。
今までの事、これからの事、自分の好み、全て国産のみでやっている事など社長と色々話をした。
30年の歴史には到底敵わないが宜しくお願いしますと快く引き受けてくれた。

塩屋本店さん
その後、大雨の中、氷川町にある渓谷へ案内され車中から見学、近くの有名ラーメン店にて昼食。
住いに戻りお茶を御馳走になりながら午後1時過ぎ仏壇に手を合わせ高橋さんの家を後にした。
前日、高橋さんが直ぐ近所だと言っていたイ草農家のカリスマ畑野さんのところへ。
突然の訪問にも快く案内して頂き色々見せて頂き多少なりとも話も聞くことが出来た。


4台の織機はフル稼働、どれも素晴らしい畳表を生産中。
仕事の拘り、畳表への愛情、品物への自信、本当に短い時間でもそれがハッキリ解るほどの藺草農家&畳表織人さんで思った通りの人、畳表でありました。
突然の訪問すみませんでした、また有難う御座いました。
畑野さんの所を後に熊本空港へ走る。
今回、本当ならもっと違う形で熊本へは来たかった。
家族に許可も無くこの記事も載せようかどうしようか正直迷った。
うちに熊本畳表(国産畳表)を安定して届けてくれた高橋商店さん。
毎月必ずトラックにて配達し、あの笑顔を見せてくれたのだ。
高橋さんがいたから当店はやってこれたと言っても過言ではない。
今もまだ連絡をすれば社長の声が聞けそうな気もするし今月も工場へあのトラックが来そうな気がする。

30年間、本当に本当に有難う御座いました。
表の取引がなくなってもそれは続きます。
家に来た時によく話してくれた熊本を拠点に九州で活躍する有名タレントの娘さんの事、防衛大を卒業して千葉県の自衛隊で教官として頑張る息子さんの事。
飼っているペットの話。
熊本産地への懸念などもよく聞いた。
跡継ぎは居なくて寂しい面もあったろうけれどそれも時代の流れ奥様と2人共に手を取り合い頑張ってきた。
『 米井さんは頑張ってるなぁ 』 という広島弁、もう一度聞きたい。
まだまだ私を支えて欲しかった。
どんなに奥様の待つ熊本に帰りたかっただろうか。
まだ64歳、本当に早すぎる突然の別れだった。

我が家をしっかり支えてくれた高橋商店、高橋文明社長、心より御冥福をお祈りします。
安らかに家族の皆様を見守りください。
30年間、本当に有難う御座いました。



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